ある朝私は上司に言われました。
「君、昨日はなぜ私の部屋に来なかったのだ」
「昨日ですか?何のことでしょう」
「何のことでしょうかではない、内線で君を呼んだだろうが!」
「内線ですか?いえ昨日内線は一度も鳴りませんでしたが」
「君は聞いていないのか!?君の代わりに隣のAさんが出て『君は席を外している』と言っておった。Aさんからは私が君を内線で呼び出したことを聞いておらんのか!?」
・・・
私はその後、隣の席のAさんに昨日上司から内線が鳴らなかったかを尋ねました。
「鳴りました。それが何か?」
なぜそれを私に伝えなかったのかAさんに尋ねると、上司は「居ないのか。ならいい。」といってそのまま内線を切ったからだという。
それであれば私が席に戻った時に上司から内線電話があったことを伝えるべきだろうと伝えると、
「は?」
「上司は『居ないならいい』とのことでしたから言わなかったのですが」
・・・
「あのね。上司は私に用があって内線を鳴らしてこられたのだろう。「居ないならいい」と、たとえそう言っても私が戻った時に内線の呼び出しがあったことを私に伝えるべきだろう」
・・・
そのように話してもなぜそんなことを言われなければならないのか分からず不満な様子。
話は変わります。
この種の話は社内だけに限った話ではありません。社外の取引先から電話があり私が電話を取ったのですが、それは部下のBさん宛の電話でありました。
「あいにくBは席を外しております。戻り次第Bから折り返しおかけ直し致しましょうか。」
「いえいえ、結構です。私の方から後ほど再度お電話をさせて頂きますから」
そういって取引先相手は電話を切りました。
やがてBさんが戻り、取引先から連絡があり先方が話したこと(後ほど再度先方から電話をすると言っていたことを)を私はBさんに伝えました。
そうしている内に数時間が過ぎ終業時間になりBさんがオフィスを出ようとしておりました時に私はBさんを呼び止めました。
「B君、そういえば先程の取引先からの連絡は何の要件だったのかな」
そうするとBさんはこう答えました。
「あれから連絡がないので私にも何の要件で電話をしてこられたのか分かりません」
・・・
「? 君はあれから折返し取引先に電話をしなかったのか」
「いえ、していません」
「なぜしなかったのかな」
「なぜって、先方から再度連絡をすると言っていたのでこちらからはしなかったのですがそれが何か?」
・・・
そのように話してもこれまた前者と同じくなぜそんなことを言われなければならないのか分からない様子。
この2つの例についてまずは相手の立場になって考えてみましょう。
まず最初の社内での上司からの内線の場合は、上司はAさんが私に上司から内線の呼び出しがあったことを伝えるはずだと考えるでしょう。
そしてそれを聞いた私は「居ないならいい」と仮にそう上司が言っていたことを知っても「先程お呼び頂いたようですが何でしょうか」と、必ず上司である自分のところに駆けつけるはずだと上司は考えるでしょう。
Aさんはその上司の考えと心境が読み取れず気配りも出来なかったわけです。
「居ないならいい」と言ったのだから私がその上司に責められなければならない理由はない。それならば「それでは彼が帰ってきたら私のところに来るように言ってくれたまえ」と言えば良いではないか、自分は悪くない、上司が悪い。Aさんはそう考えるわけです。
「先程上司から内線がありました。『居ないならいい』とおっしゃっていましたがお急ぎの御用かも知れませんのでとりあえず報告します。」というべきところをそのようなことは思いもよらないわけです。
そして次のB君の例です。
相手は「私の方から後ほど再度お電話をさせて頂きますから」と言っているのだから連絡がないから仕方なく自分は帰ろうとしているだけなのになぜ自分が責められなければならないのか、自分は悪くない、相手が悪い、と。そうなるわけです。
これも相手側の取引先の立場や気持ちになってみましょう。
「本当は早く連絡を取りたいのだが、相手に折り返し連絡させるのは失礼に当たる。だからとりあえずこちらから連絡させて頂きますと言おう」
「でももしかしたらその伝言を聞いて折り返し連絡をしてきてくれるかも知れない、だからもう少し待っていよう。何度も電話するのは相手様を急かしているようで失礼に当たるかも知れないし相手様も忙しいかも知れないから。だから繰り返しの再度の連絡ももう少し時間を置いてからにしよう」
そのように考えているかも知れません。
だからこそ、こちらからその気持ちを察して折り返し電話をすべきだと私たちは従業員に指導しているわけです。
「先程お電話を頂いたそうですが、席を外しておりまして折返しが遅くなり大変失礼いたしました。いかがされましたでしょうか」
「いえいえ、こちらこそ、わざわざご丁寧に折り返しご連絡を頂きまして有難うございます」
となり、取引先相手に配慮し折返しの連絡をすることでお互いのやりとりがスムーズになり行き違いで連絡が遅くなることも防ぐことが出来ます。
しかしそれを伝えても多くの従業員には通じないわけです。
「なぜそこまで相手に配慮しなければならないのか」
「相手は向こうから再度電話すると言ったのではないか。なぜわざわざこちらから折り返し電話をしなければならないのか」
そう主張し、相手側の「本当は早く連絡を取りたいのだが、相手に折り返し連絡させるのは失礼に当たる。だからこちらから連絡させて頂きますと言おう」という本音と建前と相手なりのこちらに対する配慮を察することが出来ないのです。言い換えれば相手の自分に対する「配慮という愛」を認識できないようにも思うのです。
私の経験ではこの種の話を理解し実践できる人間は十人に一人の割合さえいないのが実情です。
これは企業として決めつけの間違った教育でしょうか。
私たち企業の従業員教育者は社内や社外を問わず常に相手の立場、相手の気持ちになって相手に配慮し、気遣い、行動する。自分だったらどうして欲しいかを考えそれを逆の立場からする。
それを伝えても「自分ならそうして欲しいとは思わない。そんなことを考え望む方がおかしい」となるわけです。
ということはそもそもの感性が異なるわけです。元々相手に配慮したり気遣わない人々はそのような配慮や気遣いという愛を実践する人々の気持ちすら分からない、だからそれを察することも出来ないし、しようとも思わないのではないか、そのような結論に私たちは至るわけです。
「Cさんちょっとエアコンの温度を下げてもらえないかな」
「え?なんでですか?」
「Dさんを見てみな。うちわで扇いでいるだろう。先程まで倉庫で力仕事をしていたから暑いんだろう」
「それならDさんは上着を脱いで半袖になればいいではないですか。私はこれ以上温度を下げると寒いです」
そのような会話もある意味では同じだと私は考えています。
それどころか汗をかいているDさんの存在にすら気づかない日常の人間の有りさまが目の前にあります。
これらは日常で起こっている現実の風景です。
私は立派で難解な宗教の経典などを必ずしも一般の人々が読み解く必要もないと思うのです。
それよりも本日書かせて頂きましたようなオフィスでの些細な出来事、私たちの日常、そこにどれだけの大切な学びと実践の場があることでしょうか。
・・・