裕@incarnation

最愛の妻と離れ無期限単身赴任中

アリと人間はどちらが上か

弱さと怠惰

弱さと愚かさ

弱者と愚者は同じではなく

 

社会的弱者と怠け者、二者は同じではなく

 

・・・

 

社会的弱者は保護されるべきではあるが怠け者は切り離されるべきであると考える人も多いことと思います。私もその一人であります。

しかしながらそれら考えの前に「働きアリの法則」が立ちはだかります。

 

働き者のアリが2割

普通に働くアリが6割

働かないアリが2割

 

これらは常にそのバランスを崩さない

いわゆる 2:6:2 の生存本能の法則です。

 

働き者のアリ2割が力尽き倒れると代わりに働かないアリが働きだし新たに働き者のアリが2割現れる。それと同時に今まで働いていたアリがサボりだし働かないアリが新たに2割現れる。その結果、その種の集団は常に 2:6:2 の割合構成を維持するという研究結果です。

 

これは種の全滅を防ぎ種を守るための余力を残した生存本能による自然的行動と言われますが、私たち人間にこれが当てはまるでしょうか。

 

もし当てはまるなら下位層のいわゆる怠け者は必要な存在ということになります。

 

ですが、そもそもすべての人間がアリより上の存在であると言い切れるでしょうか。私の視界には働きアリたちが自分の体より大きなエサを懸命に巣に運んでいる姿が映ります。

そんな彼らを見て自分たち人間は彼らアリより上だと言い切れるでしょうか。「あなたはアリ以下だ」と言われて理路整然と反論できるでしょうか。

 

この種の怠け心の話には常に精神障害(心の病)の話がつきまといます。もちろんそのような方々もいらっしゃるでしょう。私もその精神障害認定者の子を持つ親であります。それを考慮すべきであることは承知しています。

しかしながらこの世では保護されるべき社会的弱者と単なる怠け者の線引きが非常に曖昧であります。

 

私たち人間は自分たちが自然の一部であることを認識している者はほとんどおりません。また私たち人間は自分たちが特別な存在であると信じて疑わないものです。そもそもそれを意識することすらありませんしそのような話は聞きたくもないと思っているものです。

 

自分たちは特別な存在であるとし動物や昆虫を下等動物と見下す現代の私たち人間はいつしかその傲慢さと怠惰さを自然によって思い知らされる日が来るのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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専門用語を多用する私たちの自己中心性

私たちは仕事をしている時、その業種特有の専門用語や略語を使いながら仕事をしています。例えば卸小売業や流通業でしたらSKUやロットなど。

"SKU"は「Stock Keeping Unit」の略で在庫管理における最小の単位を意味し、同じ商品でも色やサイズなどの違いによって個別に区別して管理されます。

また"ロット"という言葉は「同一の条件で製造・生産された製品の最小のまとまり」というものを意味します。

その業界で仕事をしている人々やある程度社会経験のある人々の間ではそれらの用語は通じますが一般の消費者には通じない場合が多くあります。

例えば「ロット」という言葉の意味を理解できる人は5人に1人程度と言われ、アルバイトなど社会経験のない学生であれば10人に1人程度と言われています。

しかしながら私たちの多くは顧客対応などでそのような専門用語を使用し、お客様がその言葉の意味が分からなければ、「普通知ってるだろ」「分からない客がバカなんだ」と相手を見下してしまいます。従業員にそうでないことを話してもそれに気づき反省する人も少なく、相も変わらず相手の立場になって物事を考えることができず自己中心的な視点で他者を裁くという人間の姿が散見されます。

 

私はそのような人々に逆に問いかけてみることがあります。

 

「私がいま右手に持っているこの手帳、これを形容してください」

 

そのように彼らに問いかけた時、彼らの頭は「?」となりそれに答えることができないことがあります。彼らには「形容」という意味が分からないのです。

 

そこで私が下記のように話せば彼らはどのように思うでしょうか。

 

「あなたは形容という言葉の意味が分からないのですか?」

「形容とは物事を詳しく説明するために付け加える言葉という意味です」

「例えば"細長い"手帳、"黒い"手帳など、"細長い"や"黒い"という言葉が手帳という言葉をより詳しく説明しています。それを"形容する"と言うのです」

「形容詞という国文法は小学5年生でその基礎を学習するレベルですよ。あなたはそんなことも分からないのですか?」

 

私がそのように言えば彼らはどう受け取るでしょうか。彼らは憤慨し怒り出すでしょう。自分のことを棚に上げ自分は悪くないとし上記の私の発言をまるで傲慢で嫌がらせだと言わんばかりに受け取る人々も多いでしょう。

 

もちろんこの種の話は私自身も気をつけなければならないことでもあります。

私たち人間は自己中心的な存在でありますが、本来は相手を思いやる心を持つ存在でもあると思います。

 

「相手に分かるような言葉を使う」

「相手が分からないことは話さない」

「他のたとえ話でかみ砕いて伝える」

「第三者に話す形式を取り、隣にいる人に聞かせる形で間接的に伝える」

「自分の失敗談として語り相手を責めずに伝える」

 

仏教用語で方便という言葉がありますが、例えば上記のような対応することも相手を思いやりながらのひとつの伝達方法だと思います。

自分自身もそれらを意識し気をつけながら過ごしているわけですが、そのような愛をもって伝える人々が一人でも増えることを願わずにはいられません。

 

 

 

 

 

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外面(そとづら)と内面的本性

オフィスには化粧で顔を整え、髪を綺麗にし香水で身体全体を整える女性。

彼女たちのデスクの上はペンとメモの切れ端が散乱しホコリが雪のように積もり、そして中にはバリバリと部屋中に音を響かせ菓子を喰らいなが作業をする姿。

 

それでも彼女たちは平気

そして男たちはそんな彼女たちに魅力を感じる

 

もちろん何事も価値観や感性は人それぞれ

 

外面(そとづら)と内面的本性

その本性は至るところに現れ顕在化します

 

容姿、身分、財、

上っつらでしか自分を表現出来ない人々とそれを恥としない現代人の感性

 

目に見えるものでしか価値を測れない人々

仮にその内面の本性が目に見えるところに現れていてもそれが見えないか又は見えても気にもしない人々

 

美しく容姿を整え、その脇では品性のない本性が顕に。それでも彼女たちは平気

 

世の男たちはそんな女性に惹かれる

そしてこれは男女逆の立場もしかり

いや、今の政治における女性議員の活躍ぶりを見ればむしろ現代の男性こそ情けなく嘆かわしい

 

この世はかつての日本人が持っていた恥という概念を持たない人間で溢れている

 

 

 

 

 

 

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表舞台に立つまでの偽りの姿

この世には様々な分野で「表に立てない人間」が日常の不条理に耐え忍びながら来たるべきその日を待っています。

 

前述の「耐え忍びながら」とは、自分の意に反しながらも周りに同調し組織の中で生き残ることを意味します。それは来たるべき "表に立てるその時まで" 自分の身を守るためであります。

 

私自身、そして多くのサラリーマンがそうであるように自分の考えや主義主張を押し殺しながら言われるがままに権力に従いながら組織の中で生きてきた人間です。

それはいつしか訪れるかもしれない誰に邪魔されるでもなく自己責任にて自身の主義主張、信念に基づきそれらを実行できる日まで生きる残るためでもありました。

組織や権力の下では感情に任せ正論を振りかざし自らの信念を貫こうとしてもあっという間にその権力によって潰されてしまいます。

今は表には立てない、しかしながら表に立つまでは偽りの自分を演じてでも我が身を守りながらその時を待つ、それは私自身我が身を持って長年経験してきたことでもあります。

 

先日、新しく内閣総理大臣に就任した高市早苗氏を非難する他党の人物の主張を聞いておりましたところ彼の主張はこのようなものでありました。

「彼女は自民党の人間で、党内での案としてこれまで国民を苦しめる悪法成立にことごとく賛成してきた人間である。それを忘れるな、彼女を信用するな」そのような主張でありました。

もしかしたら高市早苗氏も私と同じように「今は表に立てない」「我が身を守るために自分を押し殺し偽りの自分で組織に同調し権力に従う」そのようにして来たるべき日、自らが力を持ち表舞台に出れる日を待っていたのかも知れません。

 

私の経験では何事も正論で真正面からぶつかれば突破できるというものではなく、それどころか正しいと思われることであってもほとんどのことが組織や権力によって潰されてしまいます。会社組織などでもそれは同じではないでしょうか。

 

世の中には "今はまだ表に立てない" 光の存在が至るところに潜在しているように思います。

 

「いま表に立とうとすれば権力によって捻り潰される、まだその時ではない」

 

私自身これまでそのように考え生きてきたわけでありますが、至るところで同じような方々がいらっしゃるのかもしれません。

 

これは良い意味だけではなく権力を持ち表に立つタイミングで裏返るという悪い意味としてもその存在はあることでしょう。昨今も岸田氏や石破氏の悪夢のような彼ら任期期間にて私たち国民はそれを思い知ったわけです。ただ、彼らに関してはある意味ではあまりに酷すぎたために逆に国民の目を覚まさせたという良い側面もあるようにも思います。

 

現代はネットを通じて様々な主義主張が発信され認知の操作による見えない戦争が仕掛けられています。思考と認知について疎かにすることなく他者の話に流されてしまうことにならないよう私たちは何事も常に疑問を持ち「自分で考える力」を養う必要があるのだと改めて思わされます。

 

 

 

 

 

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少子化問題における解釈

 

厚生労働省の統計によると日本の人口は2008年の1億2808万人にそのピークをつけ、その後2025年には1億2433万人にまで減少しました。

更に2025年の年末には1億1700万人にまで減少するであろうことが推測されています。

テレビや新聞などオールドメディアではこれを少子化問題として取り上げ、世間の意識としても日本の未来を危ぶみ、日本のみならず欧米の評論家も "このまま少子化が続けば将来日本国は滅ぶ運命にある" としています。

しかしながら私はこの種の話を誠に滑稽な話であるとして受け取っており、それは少子化を悲観する現代人の下記のような理由からであります。

 

少子化により日本経済が縮小するから」

少子化により社会保障の財源が足らなくなるから」

 

このような理由で世間は "少子化問題" として将来を悲観し騒いでいるわけであります。

言わば子供たちの命を物質的経済価値と同じとし、更に未来の子供たちの命を自分たちの老後の保証としているとも受け取れるわけです。

 

江戸時代初期にはおよそ1600万人であった人口が幕末にはおよそ3000万人を超えるまでに至りました。徳川政権下では争いも少なく農耕の発展などによる理由もあったことでしょう。また昭和から平成、令和にかけての現代では医療技術の発達や物質経済の発展による労働者の確保など新たな環境に適応する必要性もあったことでしょう。

しかしながら人口減少を嘆くその理由を物質経済の論理に結びつけ更に自分たちの老後の支えがなくなるというものにすることに滑稽さを感じずにはいられません。

現代は核家族化で別居が進み親子三代ひとつ同じ屋根の下で暮らし子が親の面倒を見るという時代ではなくなったという時代背景もその一因であるとも思います。

 

少子化がなぜ問題なのか

 

"GDP(国内総生産)が下がり経済が縮小するから"

"社会保障費が足らなくなるから"

 

つまりそれは未来の子供たちの命を経済的価値や我が身の保身のためとしているかのように聞こえます。

 

しかしながら私たち現代に生きる人々はその解釈と意識の低さに自身で気づいておらず多くの人々がそれら他者の話を鵜呑みにし共感し自身でもそう信じ未来の少子化を案じています。

確かに子孫を繋ぎ一族の血(精神)を守り家系を繋ぐことは大切なことだと思います。職人による伝統工芸の匠の技や文化的価値を引き継ぐことも重要でしょう。時には農耕の維持に必要な数としての後継ぎが必要なこともありましょう。それらは当然のことであります。しかしながらその話とこの話は一緒ではありません。「それはそれ、これはこれ」です。

 

少子化がなぜ問題なのか

現代に生きる私たちがその理由としていることがいかに物質主義における利己的な理由であることか。

 

今まさにそのような現代の世の中に生まれ降りようとしている天の子供たちの心境は如何なるものか。

 

未来の尊い子供たちの命の価値を数量と経済の価値と同じとする社会。

 

人口はその数が多ければ良い

80歳、90歳と長生き出来るほど良い

人口が多ければ経済が発展し、少なければ経済が衰退する

世の中何事も"数"が多ければ多いほど良い

 

そのような社会(集合)意識に疑問に感じ、またそれらを自身の生き方に照らし合わせ自らに問い直す人間は極めて少ないように思います。

 

目に見える "数" ではなく「質」というものに意識が向けばこの少子化問題に対する私たちの解釈も変わる日が来るのかも知れません。

 

 

 

 

 

 

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日常での大切な学び

 

ある朝私は上司に言われました。

 

「君、昨日はなぜ私の部屋に来なかったのだ」

「昨日ですか?何のことでしょう」

「何のことでしょうかではない、内線で君を呼んだだろうが!」

「内線ですか?いえ昨日内線は一度も鳴りませんでしたが」

「君は聞いていないのか!?君の代わりに隣のAさんが出て『君は席を外している』と言っておった。Aさんからは私が君を内線で呼び出したことを聞いておらんのか!?」

 

・・・

 

私はその後、隣の席のAさんに昨日上司から内線が鳴らなかったかを尋ねました。

 

「鳴りました。それが何か?」

 

なぜそれを私に伝えなかったのかAさんに尋ねると、上司は「居ないのか。ならいい。」といってそのまま内線を切ったからだという。

 

それであれば私が席に戻った時に上司から内線電話があったことを伝えるべきだろうと伝えると、

 

「は?」

「上司は『居ないならいい』とのことでしたから言わなかったのですが」

・・・

 

「あのね。上司は私に用があって内線を鳴らしてこられたのだろう。「居ないならいい」と、たとえそう言っても私が戻った時に内線の呼び出しがあったことを私に伝えるべきだろう」

 

・・・

 

そのように話してもなぜそんなことを言われなければならないのか分からず不満な様子。

 

 

話は変わります。 

この種の話は社内だけに限った話ではありません。社外の取引先から電話があり私が電話を取ったのですが、それは部下のBさん宛の電話でありました。

 

「あいにくBは席を外しております。戻り次第Bから折り返しおかけ直し致しましょうか。」

「いえいえ、結構です。私の方から後ほど再度お電話をさせて頂きますから」

 

そういって取引先相手は電話を切りました。

やがてBさんが戻り、取引先から連絡があり先方が話したこと(後ほど再度先方から電話をすると言っていたことを)を私はBさんに伝えました。

 

そうしている内に数時間が過ぎ終業時間になりBさんがオフィスを出ようとしておりました時に私はBさんを呼び止めました。

 

「B君、そういえば先程の取引先からの連絡は何の要件だったのかな」

そうするとBさんはこう答えました。

「あれから連絡がないので私にも何の要件で電話をしてこられたのか分かりません」

 

・・・

 

「? 君はあれから折返し取引先に電話をしなかったのか」

「いえ、していません」

「なぜしなかったのかな」

「なぜって、先方から再度連絡をすると言っていたのでこちらからはしなかったのですがそれが何か?」

 

・・・

 

そのように話してもこれまた前者と同じくなぜそんなことを言われなければならないのか分からない様子。

 

この2つの例についてまずは相手の立場になって考えてみましょう。

 

まず最初の社内での上司からの内線の場合は、上司はAさんが私に上司から内線の呼び出しがあったことを伝えるはずだと考えるでしょう。

そしてそれを聞いた私は「居ないならいい」と仮にそう上司が言っていたことを知っても「先程お呼び頂いたようですが何でしょうか」と、必ず上司である自分のところに駆けつけるはずだと上司は考えるでしょう。

Aさんはその上司の考えと心境が読み取れず気配りも出来なかったわけです。

「居ないならいい」と言ったのだから私がその上司に責められなければならない理由はない。それならば「それでは彼が帰ってきたら私のところに来るように言ってくれたまえ」と言えば良いではないか、自分は悪くない、上司が悪い。Aさんはそう考えるわけです。

「先程上司から内線がありました。『居ないならいい』とおっしゃっていましたがお急ぎの御用かも知れませんのでとりあえず報告します。」というべきところをそのようなことは思いもよらないわけです。

 

そして次のB君の例です。

相手は「私の方から後ほど再度お電話をさせて頂きますから」と言っているのだから連絡がないから仕方なく自分は帰ろうとしているだけなのになぜ自分が責められなければならないのか、自分は悪くない、相手が悪い、と。そうなるわけです。

 

これも相手側の取引先の立場や気持ちになってみましょう。

「本当は早く連絡を取りたいのだが、相手に折り返し連絡させるのは失礼に当たる。だからとりあえずこちらから連絡させて頂きますと言おう」

「でももしかしたらその伝言を聞いて折り返し連絡をしてきてくれるかも知れない、だからもう少し待っていよう。何度も電話するのは相手様を急かしているようで失礼に当たるかも知れないし相手様も忙しいかも知れないから。だから繰り返しの再度の連絡ももう少し時間を置いてからにしよう」

そのように考えているかも知れません。

だからこそ、こちらからその気持ちを察して折り返し電話をすべきだと私たちは従業員に指導しているわけです。

 

「先程お電話を頂いたそうですが、席を外しておりまして折返しが遅くなり大変失礼いたしました。いかがされましたでしょうか」

「いえいえ、こちらこそ、わざわざご丁寧に折り返しご連絡を頂きまして有難うございます」

となり、取引先相手に配慮し折返しの連絡をすることでお互いのやりとりがスムーズになり行き違いで連絡が遅くなることも防ぐことが出来ます。

 

しかしそれを伝えても多くの従業員には通じないわけです。

 

「なぜそこまで相手に配慮しなければならないのか」

「相手は向こうから再度電話すると言ったのではないか。なぜわざわざこちらから折り返し電話をしなければならないのか」

 

そう主張し、相手側の「本当は早く連絡を取りたいのだが、相手に折り返し連絡させるのは失礼に当たる。だからこちらから連絡させて頂きますと言おう」という本音と建前と相手なりのこちらに対する配慮を察することが出来ないのです。言い換えれば相手の自分に対する「配慮という愛」を認識できないようにも思うのです。

 

私の経験ではこの種の話を理解し実践できる人間は十人に一人の割合さえいないのが実情です。

 

これは企業として決めつけの間違った教育でしょうか。

 

私たち企業の従業員教育者は社内や社外を問わず常に相手の立場、相手の気持ちになって相手に配慮し、気遣い、行動する。自分だったらどうして欲しいかを考えそれを逆の立場からする。

それを伝えても「自分ならそうして欲しいとは思わない。そんなことを考え望む方がおかしい」となるわけです。

ということはそもそもの感性が異なるわけです。元々相手に配慮したり気遣わない人々はそのような配慮や気遣いという愛を実践する人々の気持ちすら分からない、だからそれを察することも出来ないし、しようとも思わないのではないか、そのような結論に私たちは至るわけです。

 

「Cさんちょっとエアコンの温度を下げてもらえないかな」

「え?なんでですか?」

「Dさんを見てみな。うちわで扇いでいるだろう。先程まで倉庫で力仕事をしていたから暑いんだろう」

「それならDさんは上着を脱いで半袖になればいいではないですか。私はこれ以上温度を下げると寒いです」

 

そのような会話もある意味では同じだと私は考えています。

それどころか汗をかいているDさんの存在にすら気づかない日常の人間の有りさまが目の前にあります。

 

これらは日常で起こっている現実の風景です。

私は立派で難解な宗教の経典などを必ずしも一般の人々が読み解く必要もないと思うのです。

それよりも本日書かせて頂きましたようなオフィスでの些細な出来事、私たちの日常、そこにどれだけの大切な学びと実践の場があることでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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無知とその代償

この世では無知で不勉強な人間は常に搾取されます。

ショッピングモールに行けば、docomo, au, SoftBankなど大手携帯電話キャリアの若いイケメン勧誘販売員が情弱者(高齢者や情報弱者)を探し、最低でも6,000円台や7,000円台などの高額な月額料金でスマートフォン契約を迫ります。

今やMVNOと呼ばれる格安SIM業者でスマートフォンを利用すれば大手キャリアの1/5程度の費用に抑えることも十分可能で、例えば私が契約している日本通信の場合は月額1,390円で20GBのデータ通信に加え1回につき5分間の音声無料通話が無制限で(または70分の無料通話が)ついてきます。自分でスマートフォン側の初期設定をしなければならないという手間はかかりますが、しかしながらその方法はいたって簡単ではあるのですが、にもかかわらず多くの人々がその方法をろくに調べもせずに「難しそう」と諦め、その結果、設定まですべてお任せの大手キャリアで契約し5倍も6倍もの高い月額料金を支払いながらスマートフォンを利用しています。

 

「よく分からないから」

世の多くの人がそう言います。もちろん人によっては機械操作など不得意な方々も多いでしょう。しかしながら誰でも最初は分からず、だからこそ調べてそれでも分からなければネットで調べたり通信会社に問い合わせをしたり知人に聞いたりして私たちは努力し学びながら自力で設定をしていくわけです。もちろん私自身もあらゆることにおいて一からでありました。

しかしながらそれをしない、最初からするつもりもない、そういう格安通信会社があることは聞いたことがあるが面倒だしこのまま大手キャリアの契約を続けているという方々も多いと思います。

お金に余裕がある方々ならそれでも良いでしょう。しかしながら日々経済的にギリギリの生活しているような方々はそのような低価格高品質の格安スマホ業者を利用しない手はありません。格安SIMスマートフォンはクレジットカード決済限定の契約であったり、平日昼間の都心部などでは通信スピードが極端に遅くなる時間帯があることなどがデメリットとして挙げられますが、事情がありクレジットカードが持てない方々や平日昼間に4Gや5Gの通信スピードが遅くなるのは仕事に支障をきたすという方々を除けば格安SIMを使用することは大手キャリアと比較しても日常使いになんら困ることはなく、それどころか大幅に費用を節約出来るためこんなに有り難い話はありません。

そもそも格安SIMの業者の存在そのものを知らない方々や脳機能の低下や気力の落ちてくる高齢者であるならそれも仕方のないことでしょう。しかしながらそうでもないそのサービスの存在を知るまだまだ若い健常者の方々が、設定が難しいからと、今どきネットにその方法などいくらでも分かりやすく公開されているにも関わらず、それを見て学び設定するという努力さえしないというのですからそのような方々が高額な費用負担を強いられても仕方はありません。

しかしながら私は申し上げたいのです。「それなら『物価の値上がりで負担が増えお金が足らない、企業が悪い、政治が悪い、世の中が悪い』、などと文句を言うべきではない。節約できるのにすべきことをしようとしない自己の怠慢さは認識し自覚しておくべきではないか」と。私個人的にはそう思うのです。

出来ること、すべきことはあり、それを知っているにも関わらず何かと理由をつけてその努力を怠り不平不満を口にする人間は多いです。また世の中には、道楽に明け暮れ妻や子供たちに惨めな思いをさせたり、会社であれば必要以上に従業員に負担を強いたり、それでいて罪の意識や恥じらいの気持ちすらなく平気でいる家長や企業経営者もいます。自分ひとりならまだしも、家族や身内や友人、従業員など周りに迷惑をかけ、それでもなお当人は無知のままで聞く耳持たず変わろうとせず資本主義社会の日常の中で搾取され続けるその姿には目を覆うばかりです。

 

この世では無知にはその代償が伴います。

それは金銭など経済的代償だけでなく他国からの侵略など国家存続の危機や生命の危険という代償にまで及びます。

 

時に無知とはその者の不勉強さなど怠慢によるものでありそれは場合によっては罪でもある場合があると私は考えています。

すべきことをしない怠け者がその自らの業による当然の結果により苦しむことに神や仏とされる方々が手を差し伸べることがあるでしょうか。少なくとも真の神や真の仏とされる方々であればそのようなことはなされないでしょう。

 

利己心に基づき人を騙す詐欺師は身近に存在します。街の中だけではなく広義の意味では職場や親族の中にさえ彼らは存在します。

 

無知であることにはその代償か伴い、不勉強な情報弱者は常に社会の多数に流され偽善者により搾取され続けます。

 

しかしながらそもそも搾取される私たち側に未熟さや怠慢さなどその責任はないでしょうか。

 

小利口でズルく邪悪な者たち

彼らは常に不勉強で無知な人間を探しています。

 

しかしながらそのような利己的で邪悪とされる彼らは私たち以上に努力し勉強している者が多いことが日常ではよく分かります。それらが間違った努力や間違った目的であったとしてもです。努力せず怠け者で不勉強な私たちが苦しむのもある意味では当然の報いなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

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