裕@incarnation

最愛の妻と離れ無期限単身赴任中

仕事の備え

私が教育現場で教壇に立っていた時、授業の準備はすべて就業時間外にすべきものでした。

通勤電車の中、帰宅してから出社まで自宅で過ごす平日の時間、休日はもちろん、産婦人科の待合室で妻の診察を待っている間も、それらすべてがその日または翌日の授業の準備時間でありました。

では、出社してから授業までの間は一体何をしているかということですが、生徒数を増やし教室の売上を上げるための営業会議、週末の新聞折り込みに入れる生徒募集のチラシ作り、社内のパソコンやシステムの管理、その日の授業で配布する小テストの印刷など。

授業の進め方の予習やテスト問題作成、そしてテストの採点など講師の仕事として日々膨大な時間が必要となりますがそれらはすべて仕事の時間外にするのが当たり前というものでありました。寝ている時間以外はすべて仕事と言っても過言ではないでしょう。

しかしながら手抜きをしようと思えば出来る仕事でもありますがそれをすると授業の質が落ちその影響を受けるのは生徒たちになります。経験を重ねれば準備時間も少なくて済むようになりますがそれもまたベテラン講師になった時に慣れによるマンネリ化と傲慢さによって生み出される質の低下であることも長年目の当たりにしてきました。

それに私たち私学の学習塾や予備校の講師は子どもたちによるアンケートで簡単に首を切られる世界です。変形労働制度が適用され1月から3月の入試時期や新規生募集時期の三ヶ月は休日などはありません。公立校の教師の皆様もクラブ活動のお世話など休日も少なく、またモンスターペアレントのお相手などそれなりに大変なこともあるでしょうが、それでも私たちからすれば彼らが安全なバリアで保護され生活を保証された別世界の住人に見えたものです。

 

さて、現在は転職し異業種にて営業から経理、総務、人事に至るまで多岐にわたる業務に従事させて頂いてきましたが、上記のような習慣が身についている昭和人間の私にとって出社時にはほぼその日の自分の仕事の下準備をクラウド作業にて自宅で終わらせた状態で出社します。出社してからすることといえば自宅では出来なかった印刷業務や従業員への指示や納品商品の点検や取引先への連絡などになります。

もし自宅で仕事をせずに出社すればどうなるでしょう。現職では教育現場とは異なり他者に迷惑をかけることはないかもしれません。多少バタバタするだけで就業時間にはその仕事を終えることも出来るでしょう。しかしながらスピード感は圧倒的に異なります。何よりも職場で他者を補助し手助けに回る時間も持てなくなります。今日出来ることを明日に伸ばし更に明日出来ることを次週に伸ばすことになる場合も多くあるでしょう。それによりお客様や取引先を待たせることになったり売上に影響を与える場合もあるかもしれません。

 

「なぜ残業代ももらえないのに時間外に仕事をしなければならないのか」

 

労働基準法違反ではないのか」

 

「ON OFFを切り替えられない仕事中毒で人生を楽しめないかわいそうな人」

 

現代ではそのように言われることも多いでしょう。

 

しかしながらある意味では私たちにとって日々の仕事とは人生そのものであると思います。しんどく嫌なことも多いでしょう。しかしながらそこに人生の課題と学びがあり責任感を持って自分に与えられた仕事を成し遂げるという気概や義務感を持たず無気力に過ごし囚われの身の獄中生活を送るような日々はなんと空虚な時間であることしょうか。

仕事に取り組む責任感は無意識の領域にあります。言われずともする人はしますし言われてもしない人はしません。それどころか言われればそれに反発し憤慨するのが人の常です。

 

その日のきまった仕事、大切な商談、どのような仕事でもそれらは始まる前に既に大方その結果は決まっています。どれだけそれに備えシミレーションを重ね挑むかで結果は始まる前からほぼ決まっています。当然ながらしっかりと準備をして挑めば事は上手く運ぶ可能性がより高くなります。

 

「時間が来たから出社し時間が来たから帰る」

「その日に出来なかったから明日にする」

「お客様や取引先に迷惑をかけても自分は悪くない、あいつが悪い、会社が悪い」

「時間に余裕が出来ても自分から仕事を増やすことはありえない、そんなことをすれば損だ、言われるまで何も言わない何もしない」

「しかしながら給料は他者と同じく欲しい、暇そうな上役がふんぞり返り命令だけして高給を取り不公平である」

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人は往々にして義務を果たさず権利だけを主張します。またそれを相手に指摘すると烈火のごとく怒りだすため話すことも出来ません。

 

私の経験と体感から、努力とは意識するものではなく無意識かつ自然になされるものだと思います。そもそも真に努力をしている人に努力をしているという意識はなく努力という概念すらありません。何のためにそんなに打ち込むのかと言われてもその理由すら意識することなく体は自然に動き自覚もありません。すべき当たり前のことを自然の流れの中でしているだけです。おそらくこれらは教えられて分かるというものではなく人間性に基づくものでいわゆるその人の土台そのものによるものであるのでしょう。

それがこの現場の日常ではよく見えます。

 

 

 

 

 

 

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